モラトリアムの終焉
モラトリアムには終焉が存在するのかもしれない
気になってしまった、いや前々からいつかはこの状態から脱却を図らなけらばならないとは思っていた。
そしてつい最近、図るだけでは脱却できないことに気付いた。これは私史上世紀の大発見だった。
馬鹿かと、アホかと、思われるかもしれないが、気づいた事実が最重要事案なのではない、気づくことに意味がある。結果はあとから、自ずと、ついてくるものだ。
そして今宵、寝る間際に思いを馳せる中でとても頭では整理しきれないことに気付いた。世の中気づくことばかりだ。だから面白い。
そうと決まれば即行動。PCを立ち上げ、コーヒーを入れて、ヘッドホンで好きな音楽を聞きながら自分と対話して指をタイプするだけ。
そもそも、だ。そもそも「モラトリアム」について私は何も知らない。とてもお笑い種なのだが、ブログタイトルに採用しておきながらよく意味は分かっていないんだ、これが。でも実際、名前の意味を知らないことなんてよくあることだからあまり気にしてはいない。
調べた
思ったより深かった。
例えるならば、池とか水たまりしか知らなかった頃に支笏湖に遊びにいって最深363mだと知った時くらいだ。我ながら良いたとえをした。
簡単に言うならば「先延ばし」の意味合いが強いのだろう。経済用語を発端とする中で、大人の仲間入りをしても十分な年頃に学生となって猶予を求める様を表す…と。
ここで一つ概念のぶち壊しを行わせていただきたい。止めてももう遅い。私は壊したくて仕方がない。ハンマーはすでに振り下ろされている。
大人って何よ
大人って何なんだ。お金が一丁前に稼げるようになったら大人なのか、はたまたどうしようもない問題に直面したら一人で乗り越えるようになったら大人なのか。
答えは数多あると思う。もう両手両足とかいう範疇じゃあないのだ。人それぞれ大人の解釈があってよいし、別に他人にとやかく言われる筋合いはない。
つまり
私なりの解釈をここから話す。最終的に屁理屈になるが気にしないでほしい。もう終着点は決まっているのでそこまで突っ走らせてほしい。若干眠いのもあるが。
残念ながら私が今まで会った人物で完璧な大人は誰一人としていなかった。私の人生経験が乏しいと言えばそれまでだが、大人ばかりの世の中ならもっと効率的な世の運営がなされているだろうし、子供がいるから世は愉快なのだ。
以上のことから、恐らくは私は一生大人になることはない。大人になりたいと焦がれることは勿論あるだろう。だがあがけどあがけど、伸ばした手が届くことは死ぬまで、いや死んでもないだろう。
こんな屁理屈を考え付くあたりまだまだ子供なのだ。大人なんてツマラナイ。そんな少しばかりの反骨精神を抱いているのが性に合う。
さあ明日も 明後日も、いつまでも、あまりにも雄大すぎるモラトリアムの海をオール一本で水平線の向こう目指していこう。
一生全力モラトリアム