理解と支配は紙一重だ、ということ

こんにちは

 

少しばかりイベントなども片付き、落ち着いた生活に戻ってきました。

 

今日も蒸し暑く、やはり道産子の私としてはとてもじゃないけどやっていけないと改めて痛感させられる、そんな1日です。

 

突然ですが、

理解することと支配すること、それは紙一重だ。そんなことをふと考えました。

 

そんなの当たり前じゃないか、何を言ってるんだ。そう思われる方もいるかもしれませんが、私がここで伝えたいのはその事実ではなく、本当にそれは紙一重で捉え方によってはどちらにも成りうるということです。

 

知識のない私のような人間が、アフリカ奥地の異文化を理解しようとした時はどうしても我々に馴染み深い日本文化に落とし込む傾向がある、そう思います。

例えば、真ん中に打楽器を叩く人がいてその周りを輪になりながら踊る、そんな風習があった時におそらく大半の人は「盆踊りに近いもの」と表現するのではないでしょうか。しかし、彼らにとって明らかに「盆踊り」とはかけ離れたものであるし、場合によっては失礼に値する可能性も否定出来ないのが事実です。

 

この異文化を理解しようとする過程で発生する「馴染み深い文化への落とし込み」は思考上での支配に値するのではないか。そう考えたわけです。

 

歴史上での話になりますが、長い歴史の中で改宗というのが主にキリスト教で行われてきました。自分が知らない土地へ赴き、そこで所謂土着的信仰が行われていたとして、理解するのが難しいとなった場合、そこで否定がなされます。否定というのはこれはまた楽なもので、自身の視界からその存在を一旦消滅させることで理解という頭をうんうん唸らせる作業をスルーすることが出来るという。実際は否定するだけでは衝突の元となるので、改宗が行われキリスト教が広まるのです。これは宗教上での支配です。

 

つまり私が考えるに理解は支配のより高次な人間的思考だと、そう思います。

 

これの難しいところは冒頭部にも書いた通り、それは本当に紙一重の違いでしかなく捉え方によってはどちらにでもなりうる……ということ。

 

特に日常生活でなにかこれに関してトラブルがあった訳ではないのですが、メモ程度に自分の考えをまとめるために書きました。

 

こんな駄文ですが、少し考える機会を皆さんが作って頂けたら幸いです。

 

では